森鴎外の医師としての評価:賛否両論の真相

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森鴎外(本名:森林太郎)は、明治時代の著名な作家であり、軍医としても活躍しました。しかし、彼の医師としての評価には賛否両論があります。

解説1

一部の批判は、彼の医学的判断や行動に関するものです。例えば、脚気(ビタミンB1欠乏症)に関する彼の対応が挙げられます。当時、脚気は多くの兵士の命を奪っていましたが、鴎外は脚気の原因を伝染病と考え、白米食を続けることを主張しました。その結果、多くの兵士が脚気で命を落としました。

また、日露戦争中の負傷兵の後送に関するエピソードもあります。鴎外は、ある軍医が提案した効率的な負傷兵の後送方法を拒否し、自らの面子を優先したとされています。これにより、負傷兵の救護が遅れたという批判があります。

これらの事例から、鴎外が医師としての倫理や判断に欠けていたとする意見がある一方で、彼の文学的業績や他の医療活動を評価する声もあります。彼の医師としての評価は、時代背景や個々の視点によって異なると言えるでしょう。

森鴎外が「ヤブ医者」という評価を受けることがあるのは、彼の医学に対する考え方や、当時の医学界との対立など、複雑な背景があります。

解説2

「ヤブ医者」と呼ばれる理由

  • 脚気菌説への固執: 森鴎外は、脚気の原因が「脚気菌」による感染であるという説を最後まで信じ続けました。しかし、後の研究で脚気はビタミンB1欠乏症であることが明らかになり、森鴎外の説は否定されました。特に、鈴木梅太郎が米ぬかからビタミンB1を抽出し、脚気の原因解明に貢献したにも関わらず、森鴎外は鈴木を軽視し、彼の研究を認めようとしませんでした。
  • 伝統医学へのこだわり: 森鴎外は西洋医学だけでなく、東洋医学にも関心を持ち、両者を融合させようとする試みも行いました。しかし、当時の西洋医学界からは、東洋医学は科学的根拠に乏しいものとみなされ、森鴎外の試みは理解されませんでした。
  • 新しい医学への抵抗: 森鴎外は、新しい医学理論や治療法に対して必ずしも開かれた態度を示さなかったという側面もあります。例えば、麻酔薬の使用についても、その安全性に疑問を呈し、積極的に採用しようとしませんでした。

「ヤブ医者」と呼ぶことへの批判

一方で、森鴎外を単純に「ヤブ医者」と呼ぶことには、次のような批判も存在します。

  • 時代背景: 森鴎外が活躍した時代は、医学が大きく発展途上であった時期です。当時の医学知識は現在とは異なり、多くのことがまだ解明されていませんでした。森鴎外の考え方が誤っていたとしても、それは当時の医学界全体が抱えていた問題の一側面であると言えるかもしれません。
  • 多才な人物: 森鴎外は医者だけでなく、小説家、翻訳家としても活躍した多才な人物です。医学以外の分野での業績を考慮すると、彼を単に「ヤブ医者」と一括りにすることは、彼の多面的な才能を過小評価することになりかねません。
  • 医学以外の貢献: 森鴎外は、軍医として従事し、衛生状態の改善や医療体制の整備に貢献しました。また、翻訳活動を通じて西洋医学の知識を日本に紹介するなど、日本の近代医学の発展にも寄与しています。